今日のお話

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ようやく雨が上がったようです

8月は長い間旱天が続いておりましたが、末にようやく慈雨となりました。ホッとしたところが今度は長雨。学校は初日から警報で休校となり、先生方や保護者も空模様とにらめっこで、落ち着かないことでした。

そんな中で、組の若婦人研修会がございました。一応四十五歳以下の方々を対象にしたもので、四十五歳以下に「見える」皆様にご参加をいただいたのです。熱心に御聴聞くださる中、ただ仏徳讃嘆をさせていただけばよいものを、余計な話術を披露して良い格好をしよう、自分の評価を上げようとしてもがいていたのではないかと思います。
話の中で、子育てのことを取り上げたのですが、子供を叱責するときに、子供のためと思いながら、実は世間体を気にして怒っている自分に気付かされるときがあります。子供に眼鏡の装着を進められたときには 「かわいそうにな」と思ったこともありましたが、視力の悪化が止まるのであれば「かわいそうな」ことではありません。見た目がかっこ悪いから、恥ずかしいから、そんなことにとらわれて自分を見失っている瞬間だったのでしょう。

天候の変化に自分の損得を交えて一喜一憂している姿は、 目先のことや世間のこと、自分の都合の善し悪しにとらわれて振り回されている私自身に他なりません。常に仏教(仏鏡)に我が身を照らされることによって、正しく歩むべき道が知らされます。それが仏道、もっと言えば成仏道です。浄土真宗の成仏道は、南無阿弥陀仏をいただく道です。阿弥陀さまのお心をいただき、浄土へのいのちを歩んでゆく尊い道でありましょう。   

今日は雨水(あまみずじゃないですよ)

今日、2月19日は二十四節気のひとつ、雨水です。雪が降っていたのがようやく雨に変わり、ゆっくりと雪解け水が流れ出すように、徐々に暖かくなっていく一つの節目です。
ただ昨年の夏に引き続いて今年も異常気象、まれにみる大雪で関東甲信越地方は大きな被害がでて、未だに孤立状態の方も大勢いらっしゃるようですから、まだまだ雪解けという雰囲気でもないでしょう。降雪や積雪の中で長時間お過ごしになられ、冷えと恐怖と対峙しながら耐えておられる皆様の記事を新聞で目にしました。「ここは気候がおだやかで有り難い」という会話をよくいたしますが、余所やから被害に遭うていいわけありません。他人事でありません。心からお見舞い申しあげます。
さて、雪のことになりますが、しんしん降り積もる雪は周りを覆い尽くし、音を吸収して静寂が訪れます。見た目には美しいですが、生活するには非常に困ったことになりますね。思うように動けず、何をするにもストレスになってしまいます。
これを私たちの生活に照らすと、社会的な地位名誉をまとい、社交辞令を駆使して賢善精進に立ち振る舞って、いろいろな飾りを上っ面に身につけ、本当の姿を覆い隠して暮らしていると、表面上はきれいだけれども、その衣がはがれた時には自分の嫌な部分、人に知られたくない自分を知ることになるのです。雪が溶けるのは陽のぬくもり、人の衣がはがされるのは智慧の光に照らされるからです。知らされた自分の姿は決して向き合いたくない自分かもしれませんが、この私をいのちを尽くしてすくうと立ち上がってくだっている阿弥陀さまが、私を呼んでくださいます。「安心しなさい 引き受けた」と聞かせていただくとき、雪解け水のように我が心に潤いとよろこびがあふれているのではないでしょうか。南無阿弥陀仏

目で聞く耳で聞く身体で聞く

2月21日になりました。さむい日が続いておりますがお身体いかがでしょうか。
さて今日は、1872年に東京で初めて日刊新聞が刊行された日です。毎日目にする新聞の歴史は意外に新しいですね。昔、とある結婚式で司会者の方が「今日の朝刊と掛けて、お坊さんと説く。さて、そのこころは?」と謎かけをされたことがありましたが、おわかりになるでしょうか。そのこころは「今朝(袈裟)きて(着て)今日(経)を読む」というものでして、ほっこりしたことを記憶しています。
新聞は、毎日実にたくさんの情報を記事にして発行されています。政治のことは勿論、最近よく目にするのは健康に関すること、元気に生きること、若さを保つこと、裕福になること。加えて終活(いわゆる老後から死去にいたる過程)を提案し、推奨する記事です。生老病死という、お釈迦様が問われたテーマが、現代人にとっても大きな関心事であることを裏付けていますが、よく考えると、健康で元気で、いつまでも若く、誰にも迷惑を掛けずにきれいに死んでいくことだけが価値あるものなのでしょうか。そうなると、病気して年老いて寝込んで長患いして死んでいったら価値がないのでしょうか?現代社会はその方向へ向かってしまっている感じが否めませんが、そうではないと思います。生老病死は、いのちとして当たり前の姿です。誰彼として、他の人のお世話にならずに生まれ来るいのちはありませんし、年を重ねて人との繋がりの中で生きていき、迷惑をかけて亡くなっていくものであって、生かされているいのちです。
この私のいのちは、私だけのものではありません。阿弥陀さまというほとけが、すべてをかけてともに生きてくださるいのちです。南無阿弥陀仏という時間と空間を超越したおはたらきでもって、この私を必ずすくう、引き受けたとはたらいてくださるのです。
そういうはたらきの中で生かされる我が身、大きな意味を持ったいのちであるということをお経さんを通して目で聞き、耳で聞き、全身で聞きつつ味わい、かみしめて、前を向いて生き抜いていただきたいと思います。   

世界友情&猫の日

今日は世界友情の日です。東日本大震災以降、絆という言葉や、繋がり、共感、寄り添いといったワードがもてはやされていますが、あまりにも軽く、そしてはやりのように使われているような気がいたします。絆という字は、もともと動物をつなぎ止めておくためのロープのことを表すものだそうで、そう考えるとお互いが緊密に繋がり合ってこそ表現できるものなのではないかと思います。自分もつい口にしてしまう言葉だからこそ、重く丁寧に扱っていかなければならないのかもしれません。
さて、今日は世界友情の日だと書きましたが、友情って良いものですね。相手の痛みを自分のことのように感じられる、そしてその痛みとともに歩んでいく。また逆に楽しみやよろこびを同じように感じられる存在です。これがもう少し深化すると、慈悲になるのではないでしょうか。慈は梵語でマイトリー(友情)、悲はカルナ-(うめき・共感)と訳されますが、ずっと連れ添って気持ちをともにし、包み込むような心持ちで抱きしめてくださる姿をそう呼ぶのでしょう。無蓋の大悲でもって私たちのために、今まさにここでおはたらきくださる阿弥陀さまの智慧をいただき、お慈悲のなかで日々を生かされていくのでしょう。これはまさに国籍や人種、老若男女などの枠組みを超えて世界共通のよろこびとなり得ると思います。
もちろん、猫も例外ではないのでは?  

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